der Zipfel

daily diary : started on October 05 2005.

note;text_[debeaker dream] drawing works:as mercurochrome solution red:as solid line




 

+

線のドローイングパーツの形

襟ホルダーには 

1993年11月27日にN.Yの路上で出会いました

透明なそれを頭のなかでぱたんとひっくり返してみると

それだけのことで 

いろいろな言葉やオハナシがでてくる

それを頭の外に取り出したくて

輪郭線をなぞってゆく方法をまず試してみたら

モノは定規のような役割を果たし私の呼吸を助けてくれる

[用意されていた術]であることにすぐ気づきました

ドローイングパーツの形は 

異なったアウトプットの方法でベースや縮尺を変え

いくつかのシリーズの形をとって 

なんどもなんども描き直されることになるので

深呼吸が繰り返され

なかなか 安息の呼吸をつくことはできません

+

グリッドは眼にとても好ましいものです

そのグリッドをベースに使うことは

第一の素材として

私の中に常にあるマーキュロクロムの質感を

面的にミニマムに確かめるのに最適だと思えます 

私は ほんの僅かなやり方であっても

自身の見ていること 感じていることを

外にとりだす術になると常に思っています

呼吸をするように なんでもないささやかな方法で

そして 日常のように続いてゆくものとして

制作というものがあればいいと願っています

photo by yun
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note;text_ another place,another mind 2011







[as a motif]   続いてゆくくくりかえされる話 

中城高原ホテル跡地

2年ほど前 グスクを巡りながら この場所に入り込んだとき

ここをなんと呼んだらいいのだろうと思ったのです

another place another mind

(自分にとって 違った感情を与えてくれる 日常とは違った場所)

そうした言葉がすぐに浮かび 

ここはわたしにとって 滅多にない特別な場所 なのだと

訪れるたびに そうしてずうっとわたしをとらえている

この跡地の現実の要素

時間経過や風雨が壊して 機能や価値を変容させていった物質の要素が

作り出している空間の在りよう

これらの要素はわたしのなかで美しいモチーフやマテリアルとなって

わたしの中にいくつも嬉しくなるオハナシが続いていく

この展示では

この跡地での制作設置のためにメモとして撮りためた写真のなかから

別の目や感情で選んだものを展示します

制作と撮影を快諾してくださったT氏

現地での制作に協力してくださったサイギャラリー/大阪

そうして わたしをここに巡り合わせてくれた H氏に

たくさんの感謝を

 

title list

(展示写真のうち フレームをつけたものに個別のタイトルをつけている)

+入場券 as an admission ticket    

+変電所 as a substation 

+シャワールーム as a shower room/
                 眼を洗い流す ワタシの眼は新しいからよく観える 

+事務所 as an office     

+不時着 to major Tom's way/この惑星に横臥するのはワタシナノダト願う

+動物園 as a zoo/滅多にない場所      

+プール as a pool/ワタシダケガササヤカニ知ルコト 

+更衣所 as a changing room/おしゃべりなドア達     

 

photo by yun
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note;text_tiny works 01022010-20022010








日常のなかで

わたしの感情やまなざしは 

秒単位で 瞬間瞬間に 変化や配列をくり返す

それは常の不安として自分の裏側にある

でも

ゆっくりと積もる不安は いつの間にか

柔らかな優しいかたまりになっていく

             埃のように

埃は積もる時間のかたまりとして

わたしにオハナシを与えてくれる

そうやって安息がやってくる

日常ノウレシサ

自分の見ているモノ 見たいモノのコト

感情や愛情を添わせていたいモノやコト

それらの小さなモノやコトが

わたしに与えてくれる幸福感は大きい

そういった自分のまなざしがもたらす

ウレシサや幸福感を何度も確認したくて 

出会うことを繰り返してゆく

そうやって世界を確かめていたいと思う

gen_exhibition-2010.jpg             

works list

<das blau> serien

Die Farbtemperatur des Frühlings.

泉の色温度1989-2010

material 鉄残渣 ドローイング

<dusty day> series

時間の愛情に埋もれる 盲ノ小鳥ノハナシ_廻旅日

2001-2009

material 紙容器 プラスチックパーツ 埃

鳥語 2010

material 紙容器 石膏パーツ

瓶埃日2009

material 瓶 電球 埃

<as RICHARD HEYDON> series

薬剤師ノ薬箱ノ中身ノハナシ2000-2010

material 紙容器 小片パーツ

sugar game 2008-2010

material 紙箱 3g砂糖包 ミクストメディア




 

photo by yun

note;text


<形の娘>





               彼 彼  貝 空 鳩 私
​               女 女  ダ 豆 ダ ノ
​               タ タ  ッ ダ ッ 娘
​               チ チ  タ ッ タ ハ
​               ノ ハ  リ タ リ
​               御 未  ス リ
​               喋 完  ル
​               リ 成
​               ハ デ
​               止
​               マ
​               ラ
​               ナ
               イ






 
photo by yun

note;text_2005 rubber works









 
photo by yun

note;text_2005






ナキゴエとサケビゴエと  

水分の中の小鳥たちの鳴声は どうしてこんなにも透明でここちいいのだろうって.今朝は 少し肌寒いくらいの小雨.仕事をしているところから ベランダに作ってある オオモリレストランの様子がよく見える.急ににぎやかになって振り返るとちびちゃん達が まさに鈴なりになって食事中.小さい頭をふりふりして にぎやかなことといったら.見ているとケンカしていたり 少したまっている水で羽を洗っている子もいる.屋根に乗ろうとして すべってしまったりする様子に笑ってしまうし そうして なんだか泣きたくなる.小さい鳥たちの様子を見ているといつもそんなだ.鳴声のトーンは いくつか聞き分けられる気がする。きっと いろんなことを話しているんだろうな.小雨のなか レストランの軒下に並んでいるちびちゃん達の尾羽をぴょこんっと上にもちあげている様子が なんだか独り笑い.そっと指先でその輪郭をなぞってみる.小さな形.寒い冬の雨じゃないせいか なんとなくちびちゃん達は 小雨を気持ちよさそうに感じているような気がする。雨の季節が 終わったらオオモリレストランを改装する予定.暑い夏に水浴びや砂浴びもできるように小さなプールを作ってあげようって思っている.日陰になるような場所も.

9時を過ぎても雨の日はとても静か.車が雨を飛ばして走る音が 遠くで聞こえるくらいだ.

そうして あぁ そういえばこの頃 叫び を聞いていないなってふっと思う.どうしたのだろう.心配になる.その声が聞こえるようになったのは 最初からだった気がする。ここに越してきてから.朝早くにベランダで洗濯をしていると 聞こえてくる.風に乗って.なんと言っているのかは聞き取れないのだけど 男の人の声.それは ほんとうに心がしめつけられるような叫び声なのだ.初めて聞いたとき 一日憂鬱だった。どこから聞こえてくるのだろうって 早朝の外の様子を見てもしんとしていて その声が発せられた場所なんてわからない.長く続くわけではない.ほんのひととき。そして それは ほとんど毎朝だった.聞きたくなくて 洗濯をしないこともあった.でも ベランダに出なくてもあけた窓の向こうから 聞こえてくる.聞こえてくるというよりも私の耳が探し出そうとしてしまうかのように その声を拾ってしまう.一日憂鬱になり 聞くごとに半日憂鬱になり 数時間憂鬱になり 数分憂鬱になり そんな風に時間が経っていった.声の様子は 変わらない.なにを叫んでいるのかわからない.何年もそんなだった.ごくたまぁに夕方にも聞こえた.でも はっきり聞こえるのだから きっと窓辺から外に向かって叫んでいるのだろうなって考えた.家の中からだったら こんなにはっきりは聞こえない.

 そうして 数年前にその場所が どこからなのかがわかった.いつものように 早朝にその声が聞こえてすぐに追いかけるように女の人の声が たしなめるように叫ぶ人の名前を何度か呼んでいた。具体的な名前は聞き取れなかったけれど 男の人の名前の印象だった.女の人の声は きっとその人の母親なのだろうと思った.そして 私はその女の人の声を知っていたから.私が住んでいるビルのすぐ真向かいのお家の人.とてもきさくな下町の人って印象.その人が そのサケビゴエの人をたしなめる女の人の声の人だった.いつものきさくな声のトーンとは違っていたけど 確かにその人の声だった.聞いたのは その時一度きり.6階だから そのお向かいの2階建てのオウチの屋根全部が見える。空から見ているように。そのオウチの輪郭の中にサケビゴエの人がいる.もちろん姿を見かけるようなことは一度もない.もう12年くらい サケビゴエを聞いている.もう憂鬱になることはない.むしろ 聞くと ほっとするような気持ちになるようになっている.何故なんだろう.自分でもわからない.サケビゴエの人の耳にも ちびちゃん達の雨のなかの透明なかわいらしいナキゴエが聞こえるといいなって 今朝思った.

_2005 ギャラリー現 個展に掲示




works title

嘴仕事

孵らないコト

チイサナコ

鳥語を話した夜に

囀り

頭屋の場所

卵語

孵語

声袋

蓄語

孵るタメノ

窮鳥の休む場所

庭師の肖像

サケブヒト ノ タメニ






 

photo by yun

note;text_"material glance" well-protected daughter series 2004





material glance のはじまりは

小さな実とワッシャーを硝子板のうえに並べたことだった

どこかしら定まらない自分の視線をあやす方法が

見つからなくて  さて どうしようかといった日々だった

いつのまにか

わたしとわたしの視線は別々に行動するようになり

わたしは現実を生き

わたしの視線は 13ミリくらい浮いた様子で生きている

わたしの視線が 出会い選び取ってきたモノを

わたしは また もう一度フィルターにかける癖がついた

そっと置く あたまのなかで

モノたちは ほおりだされている

そうして いつか隣あう日を夢想している 自分の記号そして価値を

掘り起こしてくれるモノを

日常の時間のなかで わたしの視線は

価値のないモノにこそ 価値を与えるようになる

わたしは もう一度 眼球に触って確かめる

見るための装置 見ないための装置

壊されてしまえばいい

残るモノは なにもない

変質して そうして小さな塵になって なくなってゆくモノたち

愛しくてたまらない

いつまでも とっておきたくなる 箱入り娘のように

並べないこと 些細な配置の変化

それこそが もう一方の方法

"MATERIAL GLANCE" 

well-protected daughter series 2004

+



まなざしの計算

ポケットの中で指を動かして

閉じた口の中で舌先を動かして

瞼を閉じて ことんと 放り出してみる

モノたちは ほおりだされている

そうして いつか隣あう日を夢想している

自分の記号と価値を掘り起こしてくれるモノを

そうして ならべられた庭の様子を勤勉に観察すること 

なにが一等ウツクシイか わかるから

+
 

針の頭 おまえは片目 分かれたもう一方を探せ 自分の眼を縫い閉じるために

ぱたん と世界が閉じる 胸で呼吸する 世界が膨らみはじめる ぷうん って

庭はなくなっちゃったよ と <ちいさい頭>が 教えてくれた

展翅した針の頭の錆びた様子はあらたに作られる世界の鍵になる


+


 

photo by yun
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note;text



 

    い  飛 鳥 空 運 プ  こ と 小 あ    鳥 

    く  ん た が び レ  う っ 鳥 の    語

    つ  で ち 倒 屋 パ  し て は 言    ヲ

    も  ゆ は 置 の ラ  た も 照 葉    話

    の  く ス さ 看 ァ  小 欲 れ と    シ

       の プ れ 板 ト  さ し く      タ 

    小  だ ゥ て の を  な か さ      夜

    さ  ろ ン も 列 持  言 っ そ こ    ニ

    な  う の     つ  葉 た う の

    舌    羽   鳥 よ  が の に 言

    が    を   た う  ね よ   葉

    ち    ひ   ち に      背 と

    ろ    る   の し      中 を 

    ち    が   窓 て      に 買

    ろ    え     手      嘴 っ

    と    し     紙      を て

         て     を      う 頂 

    配          か      ず 戴

    達          ざ      め な

    料          す      る

    金                  

    の            

    計            

    算            

    を            

    し            

    

    

    






 


photo by yun

note;text_ postal works series3




 


出会ったものに場所を与えたいという気持ちが

私にとっての作るということの出発点になっています

場所を与える=配置をするということは

世界を理解する そして想像してゆくために必要なことです

私のまなざしが ひろいあげたモノたちをある場所のなかに

配置していく作業を何度も何度も繰り返してゆくことは

私にとって日常の訓練のようなものです

閉じた世界の訓練のようにもみえるけれど 実際はとても解放感のある作業です

ほんの少しの部品によって 世界を作ってゆけるのです

だんだん だんだん 形容詞をとりのぞいてゆくような作業になります

なにも形容詞や価値は存在しなくなり モノとの出会いだけが

私を浄化してくれる装置のようになって出現するのです

1989年2月11日に額のはいっている箱をあけたら硝子がわれていました

雲形定規のように割れた硝子の様子は とてもうれしいものでした

薄くて固い板にそのまま形を写して定規を作りました

お日様にあてて その形を紙に残したこともありました

ある日 自転車に乗って 曲がった角のゴミ置き場に捨てられていた

ロールの紙を見つけました たぶん洋裁の型紙を写すための紙

だいぶ古そうで ずいぶんと変色していました

雨にさらされてもいたのでくたくたになっていました

紙魚のついた様子が うれしくて うれしくて それをパネルにきっかりと水貼りして

   そうして 定規で線を描きました

おはるさんの形見の鏡を小さな記詩が割ってしまったとき

鏡の下から黄ばんだ薄用紙がでてきました

とっても きれいできれいで なんてすてきって

小さな記詩を抱きしめて喜んだことをよく覚えています

ぼろぼろの薄い紙を保管していくのは大変なことでした

同様にぼろぼろになった好きな詩集のページと並べる訓練をしながら

   そうして 定規で線を描きました

計算もなく テーマもなく ただ そうしてあるだけ

その様子ほど 私の気持ちにぴたりとはまりこむものはありません

私は 自分で形を作り出すことはできないけれど

こうして 出会って どおもありがとうって言いながら その形をなぞる

   そんなことが そんなことが

私を現実という器の中で溺れないようにしてくれるおまじないのように思えます    




 

photo by yun
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note;text_2002 field








「計量可能な精神としての物質」について

大森裕美子の個展を見た。痺れる展示であった。

 今回の展示において大きな比重を占めているのは「言葉」である。展示に即していうならば、壁面に設置された小さい立体とともに、壁面に直接刷られた「言葉」である。例えば、ある壁面には、ひとつずつ小分けにされたバター容器を石膏で型取りしたと思われる小さな立体が設置されており、近くに「溶けだしてしまうバターのようなひとつぶんの望み」という文字が刷られている。言葉が喚起する想像力と、目の前にある物質の存在感があいまって、あまり感じたことのない感覚が生じてくるのだ。彫刻や立体を見る経験とも違うし、小説や詩を読む経験とも異なる。いつもは同時に働くことのない感覚や認識が、同時並列的に働き、その処理が互いに影響しながらも、両者の独立性が損なわれることがない、そんな感じである。このようにして、「もの」と「ことば」が組み合わされてひとつの作品が成り立っており、そのような形態の作品が複数展示されて今回の展覧会が成り立っている。

 もちろん、美術作品に言語が用いられるのは珍しいことではないし、言語の使用だけを取り上げてその是非を問うのも不毛である。しかしながら、今回の大森の展示における「言葉」は、言葉を用いた美術作品の例をいくら思い浮かべても、そうした多くの前例と同列に語れるものではないという違和感が強くなるだけなのである。なぜ気になるのか。その言葉の形式があまりにも「文学」であり、その言葉の内容があまりにも「物語」であるからだ。

                      
 

 まず展示の形態ついて。美術作品に用いられる言語の様態は様々であるが、すぐ思い浮かぶ例としては、展示空間に呼応する大きなサイズや空間にあわせたインスタレーション的な提示の方法(ローレンス・ウェイナーなど)、ネオン管や電光掲示などを用いて視覚的な強度を高めて提示する方法(ブルース・ナウマン、ジェニー・ホルツァーなど)、あるいはテキストをパネルや額装するなどして平面作品のように提示する方法(ソフィ・カルなど)などが挙げられる。こういった例に比較すれば、本展では、文字は小さく、デリケートに、白い壁面に直接刷られている。まるで上品なタイポグラフィの書物のページをそのまま壁面にうつしとったかのような印象である。それはとてもひそやかで、とても好ましく感じられる。あまりにも「文学」である、と書いたのは、そういう意味である。画廊にいながらも、読書という個人的な行為が思い起こされ、作品を見るという経験が極めて私的な様相を帯びることになるのである。ところが、この文字を読もうとするとなると、身をかがめ、顔を壁に近づけ、窮屈な動きを余儀なくされる。自分の体があまりにもぶざまな気がしてくる。どうにかして自分の体が小さくなりはしないかとさえ思う。白く、控えめで、慎ましく、この上もなくデリケートな気配に満ちた空間に、あたかも聖域を汚す侵入者として自分が存在している、この気配を破壊する前に早く立ち去らなければ、そう思いながらも、この魅力的な空間にいつまでも佇んでいたいという欲望に勝つことができない。

 断っておくがこれは批判ではない。空間に即した展示が望ましいとか、美術作品らしい造型物として呈示する必要があるとか、そんなことがいいたいのではない。自分の体のぶざまさを強く意識させられながらも筆者が感じたのは、むしろその逆のことである。言葉を用いた作品に限らないが、空間に負けないように意味もなくサイズを大きくした作品、必要もあまりないのに大げさな物質感を与えたりする作品、鑑賞者の感覚的な欲求のレベルに迎合するような作品、サーヴィス精神の押し売りのような作品、そんな作例を多く目にしていると、そうした誘惑に全く惑わされず、徹底して個人的なレベルにおいて制作及び展示が遂行されているという潔さが、実に新鮮に感じられたのだ。「極私的」ともいえる表現の個人主義的な徹底ぶり、これは様々な形態を取る大森の作品全般に共通する特徴と言えるかもしれない。その資質は、今回の展示においては、個人的な営為である「読書」という作業を思い起こさせる「言葉」の利用としてあらわれている。そして、そうした個人的な享受を要求する作品であるにもかかわらず、不特定多数の人間に空間的に開かれている画廊という場で呈示されていること、それこそが筆者の気になった違和感の原因なのだろう。

                       
 

 二点目は、その言葉の内容が、「物語」である点である。例えば、本展のDMには、下記の文章が印刷されている。

 「綿畑に埋められた世界の見本 そうした続きの続きの話 繰り返される部品の話」

 この一文を読むだけで、本展で提示された言葉が、いかに想像力を刺激し、いかに様々な「物語」を喚起するかが十分理解されるだろう。しかし、この点については、ここで論じることができない。なぜなら、「物語」という問題は筆者の手に負えるタームではないからだ。批評に携わる者として、それが決定的な欠落であることは認めざるをえないのだが、いまの私には「物語」について論じることができない。無責任きわまりないが、誰かがこの問題について論じてくれることを願うのみだ。

                       
 

 最後に、本来は上述した「物語」についての具体的な分析をふまえた上で指摘すべき問題なのだとは思うが、筆者が本展を見て最も強く感じたことを、やはり記しておきたい。それは、「主体の分裂」あるいは「生の断片化」という現代社会に生きる人間が感じざるをえない典型的な兆候を、アナクロニスティックな「主体」や「生」の回復によらず、別の形で克服する可能性が示されているように感じられたことである。甚だ抽象的な議論ではあるが、大量生産-大量消費という物質の氾濫する状況において、安易に「もの」の唯一性を希求するような自然主義的・人間主義的な退行によってではなく、「物質」とはそもそも「精神の計量化」であるというとらえかたによって、断片化した生のリアリティを受け入れつつ克服する可能性を示していると思われたのだ。もちろんそれが作者である大森が今回の作品の構想にあたって意図していたことであるかどうかはわからない。これはあくまでも本展を見た筆者の個人的な感想にすぎない。最後に、この「計量可能な精神としての物質」という考え方へと思いを至らせてくれた、今回の出品作品のひとつに記されていた印象的な一文を、もう一度引用してこの支離滅裂な文章を締めくくりたいと思う。

「溶けだしてしまうバターのようなひとつぶんの望み」

梅津 元[埼玉県立近代美術館]

photo by yun
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