der Zipfel

daily diary : started on October 05 2005.

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field  綿畑に埋められた世界の見本  そうした続きの話 繰り返される部品の話

D.D Stadt 「たった一日で町を作った大男」1989  「Well」1991

世界へ接触する方法を与えてくれた

このふたつの書物に 書きとめられた言葉は

私にとって母親であり

うみだすべき子供のようなもの

世界のはじまりの部品として    ここに

大男の片頬には 骨が吸いついている

どうしてなの?と聞く

これは私の母の骨

繰り返され 繰り返され

私の骨も また

母の胸に吸いつくのだよ          D.D Stadt「Well」

+

その大男は こう言いました

町を作るためには

綿が必要なんだ

このあふれだしてくる水を

吸い集めるための

それは わたしの母親の汗や涙に似ている

綿の種が まかれる

大男の手は きまぐれに飛び散らせている

でも 種たちは

教会の椅子に座るように

ひとつひとつおとなしくしている

大男の睫を背中に乗せた小さな鳥が

ゆるりと旋回し

勤勉な庭師のように睫を通して

水を与えてゆく

小さな鳥の瞳は

固定されているけれど

これから起こる発芽の景色に

小さく囚われている

じくりと水をかかえた綿は

僕の頭のうえの空気を湿らせる

水彩絵具が洗われる容器の底で

目をこらしても滲みつづける色の群れのように

町の様子がかすんでゆく

町は もう終わりでしょう

その大男は こうも言いました

町にあふれてしまわないように

日付を綿で包むのだ

数字を見つけるんだ

用意されている時間の数字

おまえの短い左の小指の分だけ

時を足してくれるように

世界は閉じている

卵の内側のように

その中の対流にのって

決められた時間の数字が降ってくる

数字は必要だ

貯めこまれ発酵する

マナのように

拾い集めるのだ

すこしでも

世界が続いてゆくように

大男の後ろ髪にくくりつけられた

ふたつの袋

なにが入っているの?

とてもいい匂いがするよ

大男は手のひらで

袋をそっとなでてゆく

ここには私の母の骨

 

ゆるやかに曲がる 背骨と肋骨の間を

拭うように

袋の柔らかな表面が

そっとその形をなぞっている

おまえも探しにいかなければ

10という単位の時間の数字を

その数を掲げた場所にゆけば

出会える

いくつかの袋

おまえの好きなのを

選び出すことだ

その中にちょうどいいぐあいの

母の骨

空の重みを感じる

埋め込まれてゆく世界の部品の気配を

僕は猩紅熱から覚めた

首の後ろに感じる

うつむいて

井戸の様子をのぞきこむ

鳥達の小さな頭が 傍聴人のように

くっつきあって

もうすぐだ もうすぐだと

揺れている

小鳥の白い風切り羽根は

ゆっくりと

灰色に染まってゆく

世界の重さで

  頭屋をのぞいた

〈シロタマゴ〉は不在

空っぽの卵の殻をかぶった

小さな鳥

見えないよ

見えないよ

見えないよ

見えないよ

どこも見えないよ

僕は小鳥のために用意してやる

小さく折りたたんだ洗眼綿

終わることはないの?

〈小さな頭〉は動かない瞳を拭きながら

そう僕に聞く

小さな破裂音の会話 耳元で

まだうまれていないだろ

卵でも拾いに行く?

溶けだしてしまう

バターのような

ひとつぶんの望み


 

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note;text_statement for the postal works series3


  ■この現実世界には いろいろな物質があり

  私たちは それらを踏みつけながら生き抜いている

  取り残されて 静かに価値を捨てたモノほど 

  私には魅力的なマテリアルとして目に映る

  そういった 様々な断片のようなモノたちを

  私の手で配置することによって

  それらは新しく等しい価値を持ち 世界を作ることができる 

  ひとつひとつのフィールドが ひとつひとつの世界であり

  いくつものフィールドを配置してゆくことで 

  モノたちは 新たなまなざしを受け 純粋な価値を身につけ

  <material glance>として存在しはじめる

  私は そのことに幸福な気持ちをもつことができる

  ■自分が うつくしいと感じたマテリアルに対して

  私は 礼節をもって接したいと願っている

  マテリアルに特別な技巧をこらしたカタチや変化を

  与えるような美術的な要素は それに反している

  そうやって material chartの作品はできあがる
 


 

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note;text_Relocating the Material World






Relocating the Material World

Sources include text by Martin Barlow, director of Oriel Mostyn gallery.

Yumiko Omori is a visual artist who works with collections of objects. Central to her practice is a concern for the nature of substances that compose the material world. In her works, she rescues often forgotten objects and, by arranging them with other objects, injects them with new life.

Yumiko Omori collects objects which she encounters in her daily life. Her work has developed from a keen sensitivity towards the diversity of the substances that compose the material world around us, and which we throughout our lives, trample over with little regard. The objects that attract her particularly are those that have been forgotten or discarded and which have quietly lost their value.

Omori makes no distinction between natural and man-made materials: coral, gauze, Mercurochrome, rubber and seeds have all attracted her attention. Though inclusiveness is inherent within this method of collection, Omori seeks what Martin Barlow, director of Oriel Mostyn gallery in Wales, UK calls ‘the perfect crystallisation of the material glance’ but rarely experiences it in its pure form. It is therefore through the arrangement of these objects that Omori completes her work for, through this process the fragments obtain, as Barlow points out, ‘a value equal to new’ and are thus able to constitute a new ‘world’. Omori herself explains, ‘Each field is its own world. By arranging many fields, objects receive a new “glance” and gain pure value, and start to exist as a “material glance”.

Her work, entitled ‘Material Glance’ (1995–2001) is a changing collection of objects, in which newly collected materials are constantly added to existing ones. As such, the display varies each time it is shown and each showing is unique. 

In 2001, Omori was invited to participate in ‘New Space’, an exhibition supported by Visiting Arts and curated by Reiko Aoyagi, a noted Japanese artist living in Wales and Martin Barlow. While the project’s ambitious remit opened up an exploration of the new possibilities of spatial experience fostered by today’s global technologies and the daily movement of people and goods across the world, Omori responded with a modest reconception of space. In ‘Material Chart’ (2001), she displayed latex rubber sheets, allowing the extraordinary nature of the material to be felt. She had planned on following her favoured practice of painting the sheets with Mercurochorme, a liquid substance widely used in Japan as antiseptic. This would have given the rubber a highly distinctive red translucence. On encountering the latex however, Omori reacted to the size of the sheets, their natural colour and smooth texture. Finding them perfect, she decided to use them as they were, extending her philosophy of treating her materials with respect rather than imposing upon them an over-manipulated or artificial form.





 

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note;text_ D.D Stadt{ giant who made the town in just one day }for the wall






 

登ってみたいよ きっと 肘とか膝が ざりざりになるだろうね

蓋をまわすと ちょっとだけ 錆の匂いがしてくるんだ オバアチャンちのクッキーの缶

句読点をちゃんと使える大人に ならなけりゃぁって 叔母さんは言うんだ

必ず 僕を呼ぶ声が聞こえてくるんだ 声の形が 空気の中にゆっくり溶けて 

僕は 走って走って 戻っていくんだ

たくさんの建物が あって その中にたくさんのドアが あって どこにでも行けるんだ 

みんな みんな 通じているんだ

鳥しか住んでないよ 軽業師みたいに生きなくては だめなんだよ

それじゃあ 困ちゃうよ 小さな鳥が 困ちゃうよ 白いお皿みたいな水飲み場なんて

頭骨を振る 地図の形が そこにある

鍵が ひとつありました でも どこにも オウチはありません イエナシ鍵のご入場です

朝だけしかなかったら 昼だけしかなかったら 夜だけしかなかったら

     

鳥語を話した夜に 僕の前髪の毛の束が ぞぁっと 震えてきたのが よくわかったんだ 

そんな時は 絶対によくないことが 起きるんだよ

オウチの番号とってもきれいな記号

 

その場所にはね 卵が たくさん落ちてるんだ

鳥が 笑っているの

その中には 

なあんにもないのよって

オカアサンの指はさぁ ちょうどいい鍵なんだ 

ちゃんと 鍵の形を覚えておくのよって 言われていたはずなんだけど、、、、

わからない屋さんが 住んでいました 
でも わからないんです 町のどこかということが

    

海の匂いが するだろうよって 消防士は散水器を磨いてる

屋根と屋根が 繋がって ひとつのオウチになりましたとさ

        

そんなものが 欲しいのかぁい

って

小さな頭骨の鳥が

僕の胸元をのぞきこんでくる

軽業師のように
生きるなんて無理なこと

だから 時間は帽子の中に

〈シロタマゴ〉は言う

世界は どこにもない

その嘴仕事から生まれる

私の皮膚の上の細かな地図

鍵の形を覚えておくこと

そうすれば カエルコトが

できるのだから

オカアサンは そうも言ったよ

オウチの記号をその小さな頭にきざみつけられたら

からっぽの卵を

ひろいに ゆきましょうよ

まだまだ 足りないでしょう?

なにをいれるの?

そんなことを考えては

いけないの

私たちは 受容するだけなのだから    

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note;text_D.D Stadt{ giant who made the town in just one day }






その大男は こう言いました
 

町を作るためには

たくさんの呼吸をしなくては

まず 屋根が降ってくる 

そして その下に椅子が

置かれるんだ

人数分のね

時間が 必要なの? って

大男に聞いたら 

必要なのは 音 って 

ことだった

空の形が 降ってくる

町は もう終わりでしょう

D・D シュタット

   「たった一日で町を作った大男」      

 





その大男は こうも言いました

町を作るためには 

ツリサゲラレルためのものが

必要なんだ

どこにあるの?

どこからくるの?

どうやってツリサゲルノ?

僕の問いは 大男の指に

ひっかかり 

その動きを止めてしまう

しぼんだこころの形が

列になって行進する

町は もう終わりでしょう

   

D・D シュタット

   「たった一日で町を作った大男」      

 

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note;text_D.D Stadt「well」







D.D Stadt「well」
たった一日で町を作った大男に聞いた話


記詩が投げかけてくれる言葉に感謝をこめて

+

小さいときは小さかった?

わたしは母の大きさだった 最初からずっと

母の皮をやぶって ぐるりと裏返って はいだしてきたのさ

そうしてお母さんは どうなったの? 

裏返って 戻っていったよ

わたしの中に

自分の足元をめくってみろよと大男は指さす 

ここにあるのだ こんなふうにめくって見るのだ この世界を

視線をかたくすると 世界は滲みはじめる 僕はかゆくなった

目の端をこすってみる 大男が笑った

水たちが 変化していく様子をながめる 

僕の膝から下は 別の力運動の楽しみを試すかのように せわしなく動いてた

上腿と下肢の時間は 違うということ

吊されるさえずりの形 

吊される小雨覆 中雨覆 大雨覆

小さな頭すら 落としてきてしまったんだよ 

はりつけられた指標のような 世界の部品

ひとを作るにはね 2日もかかるんだよ

夜の端っこの とがったところをめくるんだよ そうするとね

どんどん どんどん 小さくなるんだ

そうして世界ができあがる


その大男は こう言いました

自分のあたまの中は ひっくり返っていて 

イキモノは降ってくるんだ 

ぼとぼとと 大粒の雨のようにね

雨は 大男の爪の間にたまり そして小さくうつって見える町の様子

ぶつかりあうものは 変化してゆくんだ 子供の歯並びのようにね 

じゃあ矯正することができるものなんだね 

針金のかちかちいう味

希望のかけらは きっとそんな味がすることだろう

photo by yun
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note;text_"Secret Values"_5 contemporary Artists Searching for the Quart Tower




 

視線の結晶学

私が今まで買ったり、使ったりしてきた品物、読んだ本、展覧会入場券の半券、領収書など、生活の中で関わってきたモノを、もし処分しないでえすべて保存できたとしよう。買った日、使った期間、不要になった日を記入して保管できて、なおかつそれらを陳列するためのそれなりのスペースを確保できたら、「<私>博物館」ができるのではないか。人間が今までの歴史の中で関わってきたモノ、作り出したモノをある法則に従って並べ、後世の子孫、よそからやってきた人々に、自分たちの営みの歴史を伝えることが「博物館」のひとつの機能なのだから、「<私>博物館」は、何でもない平凡な私という一個人の歴史をモノに託して他の誰かに伝える事になるだろう。実現の望みの薄いこの試みは、しかし意外にも、「人間」とか「民族」とかいった大きな枠組みで語られてきた「歴史」に埋没してしまうほかない平凡な一個人の人生/生活を浮かび上がらせ、、<私>という極小単位の世界から極大のなにかを伝達するための有効な方法かもしれない・・・。

 大森裕美子のまるで標本のような作品『Material Glance 物質のまなざし』を改めて見ると、ちょっと前に私がそのようなことを考えたことを思い出してしまう。大森の作品にはいくつかのバリエーションがあるが、もっとも印象的で魅力的でユニークなのは、なんといってもこの『Material Glance 物質のまなざし』である。それは大森の眼差しに見合った<彼女はこれを「モノと出会う」と表現する)、実にささやかでなにげない無数のモノの断片が、彼女自身の手によって作られた小箱に入れられたり、石膏板や白いタイルの上に並べられた作品である。珊瑚のかけら、鉄片、石膏片、ワッシャー、小瓶の蓋、フィルムの切れ端・・・いずれもあまりにも断片化していて、原型を言い当てることが難しい。モノに囲まれた日本での生活の中で、確かに私たちは目にしたことはあったかもしれないが、大抵の場合はどうでもいいものとして捨ててしまうか、見過ごしてしまうか、放置してしまうようなモノばかりである。ところがこれが大森の手にかかると、なぜか謎めいた神秘性を帯びたオブジェへと変化する。

 「この物質に出会ったことがすごく大事だったことで、珊瑚だから、ということはないんです。自分の眼差しにかなった物」(註1)。大森はモノへの自らのまなざしの向け方を、このように端的に言い表している。それが何であるか、は事後的なことに属するので、あまり重要なことではない。大切なのは、大森の気まぐれで偶然的なまなざしが向けられた対象に、彼女自身の「世界」が現れていること、なのである。

 そのことをさらに確認していくために、彼女は出会ったモノを箱に展翅するときに、出会った日、箱詰めした日付を書き入れ、自分のサインを施す。さらにそのモノのドローイングを作成し、モノに見合った(と彼女が確信する)言葉の断片を書き入れ、ここにも日付とサインを入れる。

今日もあの日も、確かに自分が存在していて、世界と一瞬でも向かっていたことを確認するために、出来事を日記帳に書き記すのとどこか似ている。あの日彼女が眼差しを向けた先に偶然在ったモノに、彼女の視線が結晶する。それが蓄積され、無数の『Material Glance』となってゆく。そう、結晶したものは彼女の一瞬の視線(=Glance)だ。だからこれが積もり積もったとき、「<大森y皇子の眼差しとでったモノ>博物館」ができるのかもしれない。そこに並べられたモノは、大森という一人の<私>が軸となって見いだされた、とても小さな「世界」の集まりであろう。しかしそれは決してまとまりとなって一つの世界を京成したりはしない。視線が結晶化して、まとまったものを目指しつつも、決して統一されることはない。バラバラのGlanceがバラバラなまま物質と化し、論理的つながりも相関性ももたないまま、ただ大森の気に入った配置に従って並べられるのである。

 この『Material Glance 物質のまなざし』と平行して続けられている異なるいくつかの作品群がある。ゴムにマーキュロクロム(赤チン)で彩色し、石膏と組み合わせられたインスタレーション。それからtextと題された、出会ったモノの輪郭をマーキュロクロムでドローイングし、そこに言葉を添えたもの。出会ったモノを石膏でそのままかたどった立体作品など。マーキュロクロムも石膏もゴムも、やはり大森の眼差しが「出会った」モノたちだ。だからこれらの作品も、先の

『Material Glance』の延長にある。

 ところで、大森がかくも自らの眼差しを絶大なまでに信頼し、ささいなモノにこだわった作品を展開するのはなぜだろうか。それに、よく考えてみたら、彼女の作品は、彼女自身の極私的な眼差しに支えられているのにも関わらず、具体的なプライベートなエピソードなどはそこにはない。純粋に視線の結晶化<物質化>が主題となっている彼女の作品では、大森という一人の人間の存在と世界の関わりが問題になっているのであって、彼女の私的な生活を垣間見せることが目的なのではないのだ。にも関わらず、大森の作品に彼女自身の強烈な私性と、それとは反対の解放感を感じるのはなぜなのだろうか。

 精神科医の木村敏は、著書『自覚の精神病理』において、離人症患者の「私」の存在や眼の前に対象の存在感の欠如感覚を考察しながら、私たちの自己認識の方法について次のように述べている。

 「知覚における対象構成の働きといわれているもの、それをわれわれの言葉になおして言うならば、いろいろなものを「いまここにある」という形で述語的に統一する行為を意味する。この

「いまここに」と言われる場所は、ものと私自身とを同時に成立せしめる場所として、むしろ対象界の法に、つまり私自身の外にある、とみることもできる。私が私の自分自身を私の内にではなく私の外に、いわゆる「世界」を形成しているところの形成さまざまな「もの」の源泉において見出している・・・」(註2)

 「コップがある」「リンゴがある」「という分の主語によって綿地たちはモノの存在を認識しているのではなく、それを知覚しようとしている私の関心が成立するよりも以前の領域において、すなわり、目の前のモノが具体性を帯びる以前の、「(いまここに)あるとしかいいようのない述語的なレベルでのできごとが生じている場所において、私にとっての「自分「もまた同時に現れる。そのモノが「ある」ということにおいて「私」もある、という意味のことである。

 この考察にならって、私たちは次のようにいうことができるのではないか。つまり、私たちの目の前には、モノがただ名前もよくわからず存在感も希薄なままバラバラに浮遊している。鈍感 な私たちの感覚は、そのことに恐怖感を覚えないか、あるいは意識的に忘れようとしている。

何気なく投げかけた視線に映ったモノのことなど、いちいち記憶していたら脳がパンクしてしまうからだ。しかし、大森は、その取るに足りないバラバラであいまいなモノたちを「いまここ」の出会いの中に一つひとつの確固たるものとして存在させるために、それらを箱に入れたり日付をうったり、ドローイングを描いたりする。そして自分の気に入った配置方法を探し出す。そうすることを通して、つまりモノの存在の確認を通して、彼女は自分自身の「いまここ」の存在の確証を得るのである。それらがすべて「断片」であることは重要である。かつで何かであり、人と関わったモノ、それがやがて不要になり、打ち捨てられ、断片と化す。存在を忘れられ、この世界から消えかかろうとしているその刹那に、大森の眼差しがそれを捉える。「『世界』を形成しているところのさまざまな「もの」の源泉」___大森がさがしているのはこれであり、それとともに、自分も在ろうとしているのだろう、だけど、何かを求めて血眼になるのとは随分違い、彼女はあくまで何気ない偶然性の中に生じるGlanceに価値をおく。Glanceには「一瞥(ちらりと見ること)」という意味の他に「かすかなきらめき」という意味もある。だから『Material Glance』とは、モノとは認識しがたいまでに断片化してしまった物質の一瞬のきらめきのことでもあり、放っておけば消えてなくなってしまいそうな大切な世界の在処を確かに存在させるための「一瞥」なのである。

山口洋三(福岡県立美術館)

(註1)「極私的なまなざしが状況を照らしだす時」(インタビュー)『フリークアウト』vol.8(1995年8月)

(註2)木村敏『自覚の精神病理』紀伊国屋書店、1978年、P35



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note;text_ to E _about works



 

私には ぼんやりとしたものにしか見えてこない

cradle    揺れる台座 眠りの中にある優しい行い

境界の中のウツクシイ様子

色のなかの様子

境界線 分けるもの 隔てるもの

庭の周囲にふき寄せられてくる

微細な要素  

庭の真ん中の窪んだ場所 spot

わずかな貯まり水

るらりと背に曲線を背負った者のために

小さな場所
 

tiny spot



 

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note;text_ card works1998 nov

ERNST HAECKEL(1834-1919) は 

19世紀のドイツにおける 進化論者であり  

科学者であり そして 博物画家でもあります。

系統樹の創案をはじめとして

多数の生物学上の成果をあげました。

HAECKELの生物スケッチの才能を発揮した

<Kunstformen der Natur1899-1904>には 

<自然の美的技巧>という訳がついています。

この図鑑を知った頃は 出会った珊瑚のスケッチをしていたり 

言葉の配列を楽しんでいた私は スタンプを作ることにも 夢中になっていました。

スタンプは イメージを反復させるのに とても手軽な手段であること

質素な緊張感を楽しむことが できるということが 私には とても好ましく思えました。

そして 

このHAECKELの図鑑の珊瑚類のページをながめていて <coral-collage-collection>

というタイトルを思いつきました。

そして それに 沿った なにかしらのカタチを作りたいと思ったのは

1989年のことでした。

HAECKELの図版をひとつずつ 角材で台をつけたスタンプにして 

拾った紙の箱に仕切りをつけて そこに図鑑のように並べました。

そうして イメージの断片を紙の上に増幅させてゆきました

その過程で当然のように紙の上には名前を持つ者や場所があらわれてきました

時間のない王宮に住む人たち

重さのない液の中に 眠っている器官たち  

ドコカラ ヤッテキタノ?  ドコニカクレテイタノ?

そう 話しかけたくなるような作業だったことを覚えています。

自分の作りあげたイメージでは ないモノから 触発されるという悦びを

初めて感じたように思います。      

そして 気付いたこと

  

オリジナルなイメージというものはどこにもないのです

作品に求められる表面的なオリジナルという概念が 私は好きではありません

すべては 必ずどこかに用意されていて

そこにむけるべき まなざしを持っているかどうかが

重要なことであると思うのです。

photo by yun
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note;text_1998 tiny-tiny little, little tiny





 

tiny-tiny little, little tiny

ささやかな連綿としたこの日常生活の中で、呼吸するのとほとんど同じレヴェルで制作すること。新奇さや特殊性やインパクトを求めず、つとめて模索したり選択したりせず、出会うもの、厳密には不意に出くわすものをまなざすこと。このところあふれているそうした制作法の多くが、現代美術の強度を衰弱させたことは否めないだろう。それはきわめてナチュラルでのびやかな態度に感じられるが、ときに鑑賞者のまなざしという僅かな刺激にさえ耐えない、たんなる個人の感傷の展示に終始してしまいがちだ。

 微細なオブジェを収集保管する標本制作や、その蓄積性とはうらはらに、マーキュロクロムにガーゼを浸したひじょうに切り詰めた表現が、印象的であった大森裕美子。彼女の今回の作品は「tiny」と名づけられた薄いプラスティック板をモティーフにしたドゥローイング。彼女はそれに93年、ニューヨークの路上で出会ったという。シャツの襟の型崩れを防ぐために用いられるというその輪郭を赤鉛筆でなぞり、もともとは香港土産にもらったというマーキュロクロムで丁寧に塗りつぶしていく。その作業は反復してできた形を組み合わせたり、エンボスで浮かせる。あるいは、ガーゼ状の生地がすける石膏板上で、色褪せたドイツ語の愛読書の紙片とコラージュする。実用のためにある抽象的なかたちはその用途からはなれ、赤チンの暗褐色いろに塗られて、だれも、おそらく作家本人も予想しえなかった軌跡を遊びはじめる。骨格や関節、脳や内臓、ミトコンドリアなど、なぜか生物的なものを連想させるのも不思議な体験だ。衰弱どころか、そこにはたしかな生命力が感じられる。ひとの首回りに合わせて、微妙な曲線を描くプラスティックは、これまで大森が出会ってきたすべてのモノと同じように、それ自身と彼女自身の存在のかたちをはかり、たしかめるための定規なのである。

 日常を耕して、沈んでいるtinyな、小さな断片に出逢うとき、のっぺらぼうの現実は少し破れる。その傷を彼女のマーキュロクロムやガーゼがおおう。そして小さな刺激で揺らいでしまう感傷という傷さえも、それは「手当て」してしまうのだ。

田川とも子 (BT1998年4月号展評)


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